生没年
161年~223年6月10日
劉備の生涯
161、年河北省にて生まれる。
桃園の誓いにて関羽、張飛と義兄弟の契りをむすび、
黄巾の乱、董卓討伐にて名をあげる。
陶謙より徐州を託される(劉備34歳)
曹操から逃げてきた呂布を受け入れるも、その呂布に徐州をうばわれる。
曹操のもとにはしり、手厚いもてなしを受けるも胸に秘めた大望を見透かされ
曹操のもとを脱出し曹操と対立する袁紹のもとに走る。
袁紹が曹操に倒されると、難を逃れた劉備は荊州刺史の劉表を頼り身をよせる。
中原を制した曹操の大軍勢が荊州にながれこみ、劉表の後を継いだ劉綜が降伏したので
撤退をよぎなくする。
208年、呉の孫権と同盟をくみ、曹操と赤壁で対決し大勝利する。
その後、荊州南郡を平定した。
219年、荊州、益州(蜀)、漢中を領有し漢中王に即位する。
221年、蜀を建国し漢の皇統を継ぎ、昭烈帝となった。
関羽の仇討ちに夷陵に出陣し大敗する。
223年、軍旅のなかで病にかかり白帝城におもむき病没する。
どのような人物か
河北省の片田舎で生まれ、幼くして父を亡くしたため草履売りやむしろ織りをして
くらしていました。中山漢王劉勝の子、劉貞を自称し血脈のよさを肩書にして、
生きていきました。身長は7尺5寸(173cm)
若いころの劉備は、学問を好まず、狩猟や音曲、着飾ることを好んだそうです。
そのころの劉備は、口数少なく、謙虚で、喜怒をあらわさず、天下の遊侠の士と
ひろく交わったので、土地の若者たちはあらそって劉備のもとへ集まったそうです。
劉備は、負け戦のあとでも腐らず謙虚にふるまい希望をすてないことで、
負けても負けても人が集り、その力で蜀を建国するまでにいたった徳のある人物です。
主な戦い
184年 黄巾の乱 vs黄巾軍 戦果をあげる
190年 虎牢関の戦い vs董卓軍 戦果をあげる
196年 肝胎・淮陰の戦 vs呂布・袁術軍 敗北
198年 下邳の戦い vs呂布軍 曹操軍と共に勝利
207年 新野攻防戦 vs曹操軍 勝利
208年 長坂の戦い vs曹操軍 敗北
208年 赤壁の戦い vs曹操軍 孫権軍と共に勝利
212年 益州攻略戦 vs劉璋軍 勝利
217年 定軍山の戦い vs魏軍 勝利
221年 夷陵の戦い vs呉軍 敗北
関連用語
桃園の誓い
三国志演義にて劉備(長兄)関羽(次兄)張飛(弟)が宴会にて義兄弟の誓いを結び
生死を共にすることを宣言したこと。
髀肉之嘆
劉備が平穏な日が続き、馬に乗って戦場を駆けることがなくなり、内ももに贅肉がついてしまったことを嘆いた故事
内容は功名を立てたり力を発揮する機会がないことを嘆くこと。
三顧の礼
劉備が諸葛亮を迎えるのに三度訪ねたという故事
内容は目上の人が格下のものを三度出向いてお願いすること。
水魚の交わり
劉備と諸葛亮の関係性をあらわす。
内容は魚が水がなければ生きていけないように、親しく信頼しあう間柄のこと
的盧
劉備の愛馬
蔡瑁が劉備謀殺を謀った時、城から脱出し檀溪を飛び越え劉備の危機を救った名馬
・・・等