生没年
生年不明~219年
関羽の生涯
河東郡解県に生まれる。
亡命して涿郡に移り、劉備が仲間を集めたとき義兄弟になった。
劉備が平原の相となったとき、別部司馬に任じられ、部隊を指揮した。
黄巾の乱、虎牢関の戦いで武名を上げる。
劉備が袁紹のもとに奔ったとき、曹操の攻勢に力尽き捕らわれた。
曹操から厚遇され客将として身をおいた。
曹操に恩返しをするかたちで、袁紹との白馬の戦いにて顔良を討ち取る
手柄を立て曹操のもとを去った。
のちに赤壁の戦いで曹操軍打ち破り劉備が江南を支配すると、襄陽の太守に
任じられ長江の北に駐屯した。
益州平定後、荊州の軍事総督に任じられた。
劉備が漢中王になると前将軍に任じられた。
曹操が孫権と同盟を結ぶと、背後から荊州に侵攻されて大敗、関羽は麦城に逃れ、
最期は城を脱出しようとしたが、退路を断たれて臨沮で子の関平ともども斬殺された。
関羽とはどんな人物か
演義では、身長9尺(207cm)、髭の長さが2尺(61cm)あり、
顔が熟柿のように赤く、油を塗ったような唇、丹鳳の眼、臥蚕の眉と描かれている。
重さ82斤の青龍偃月刀をあつかい、降伏したときに曹操から贈られた愛馬赤兎に
乗って戦場を駆けたという。
陳寿は「関羽と張飛は1万人の敵を相手にできる男と賞賛されたが、関羽は剛情で自尊心が
強すぎたため、身の破滅をを招いた」と評し、また「部下を可愛がったが、目上の者には傲慢だった」と酷評を述べている。
曹操のもとを去る話、関羽千里行や赤壁の戦いで曹操を追い詰めながら見逃す話などより
義侠心のつよい武将として、民衆のあいだでは人気は絶大で、後世に神格化され、関帝廟として祀られており、「演義」では活躍の場が多く与えられている。
主な戦い
184年 黄巾の乱 vs黄巾軍 戦功をあげる
190年 虎牢関の戦い vs董卓軍 戦功をあげる
(汜水関で華雄を一騎打ちにて討ち取る)
198年 下邳の戦い vs呂布軍 勝利
200年 白馬・延津の戦い vs袁紹軍 勝利
(曹操の陣営として戦い顔良を討ち取る。)
207年 新野攻防戦 vs曹操軍(曹仁) 勝利
208年 長坂の戦い vs曹操軍 敗北
208年 赤壁の戦い vs曹操軍 勝利
218年 樊城の戦い vs曹操・孫権連合軍 敗北
(麦城に脱出するも失敗し捕らえられ斬首された。)